昭和47年4月28日 朝の御理解
中村良一
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
大きな信心というのは、大きな事を願うという様なものではない。私は、一番、大きな信心は、どういう信心かと言うと、いつも天地がバックだと信じれれる信心だと思うですね。いつも天地がバックだと。私は、信心は、大きな信心が良いと。金光様の信心が大きいという事じゃないですよね、これは。金光様の信心しよっても、それこそ、重箱の隅を指でせせるような信心しとったんじゃ、大きな信心とは言えませんよね。いかにも、願うところは、生神金光大神天地金乃神と、天地金乃神様を拝んどるだけではつまらんですは。なるほどその、拝みよる事が信心ならね。そら、天地金乃神様の拝みよるけん、大きな信心じゃろうけれども。そげな事じゃ、おかげは頂かれんです。ね。
金光様の信心しよって、小さい事が気になって応えん。ちょいとした事がもう、腹の立ってたまらん。なら、金光様の信心しよったっちゃ、そら、小さい信心と言わなきゃなりません。けれどもね、いつの場合でも、どんな時でもです。私は、ね。いつも、神様をバックにしてるんだと、天地の神様を。ね。もう、いつも天地が、私のバックだと。と、それが信じれれるから、いわゆる、ごちゃごちゃした事も言わんで済む。ね。ぎりぎり、ね。誰にも、いうなら、こういう信心に適するものが無い。相手になるものが無い。これはまぁ、私自身がそうですけれども、私は、いつも、自分でそれを信じております。私は、天地がバックだと。ね。だから、そういう信心をさせて頂いておるから、そんなら、大きな事ばっかり言うておるかというと、そうでもなくてです。ね。もう、それこそ、いうなら、小さい事柄の上にでもです、ね。心を止めさせてもらう。ね。天地がバックだと、天地が、いつも、私のために働いてくださるのだと。こんな心強いことは無い。けれども、おや、これは可笑しいぞと。例えば、思うようなことが、それは無いじゃない。それは、いつもある、厳密にいうと。ね。
例えば、今度の御大祭の前の、御大祭の前日、皆さんが御用頂いて、終わられるころまでは、あーして、お天気のおかげを頂いた。それから、お湿りがありだして、今度は、風が出だして、いわゆる、雨嵐になってきた。もう、夜中はもう、ひゅうひゅう、屋根が鳴るような風であった。三時過ぎに起きた時には、もう、雨漏りがするほどの大降りで、風が、いよいよ、強うなった。ね。そういう時に、やはり、私は感じますね。私は天地がバックだと。こら、間違っておるのかなと、猛反省いたします。けどもその、猛反省させて頂きながら、悪いところは、詫びさせて頂いたり、改まらせて頂く気持ちを作らせて頂く。おかげを頂いて、お祭りが始まる、一二時間前から、お湿りが、段々、小降りになって、風も取れて、ね。お祭り中は、おかげを頂いてお湿りが無かった。はぁ、やはり天地がバックだなと。ね。今日のお湿りは、こらもう、やむにやまれない、やはり、事柄があって、お湿りがあっておるのだけれども、けれども、なら、合楽の御大祭の間、お祭りの間だけぐらい、神様がこう、降らずにして下さる。慌て回って帰った人達は、また、お祭りのあの、お説教が始まる頃からね、ぼちぼち、お湿りがあり出しましたから、濡れられたかも知れませんけれども、お説教を頂いて、御直会でも頂いて帰った方達は、また、おかげで、濡れんで済む様なおかげであった。ね。こらまぁ、天候の上にでもですけれども。例えていうと、それは、私共が住まわせて頂くところにです、ね。やはり自分で、おや可笑しいなと思うような時には、先ず、立ち止まってみて、前には進まない。いうならば、足したならば引いてみ、引いたならば、足してみると言うように、その、天地の働きを直に受けておる、その働きを、身に感じさせて頂きながら、進ませていただく。ね。
だから、大きな信心というのは、大きな事ばっかり願ったり、言うたりしておるという事ではない。もう、それと反対に、小さい、・・・。何時でしたかね、もう、二十年近くも前だったでしょうか。秋永先生と一緒に、御本部参拝を大祭の時にさせて頂いた。もう、一杯でしたから、座るところが無かった。そして、こままらせて頂いたら、先生方、来賓の方達の席が、ガラッと空いとったから、まぁ、そこに入り込ませていただいて、来賓席から拝ませて頂いた。ですからもう、金光様のお出ましの、もう、直ぐ直ぐ足元で、拝ませていただいた。金光様は、お装束をお着けになって、こう、静々と、祭員にお迎いになられる。ちょうど、私共の前を通られる時に、ふっと、かがまれてね、何か拾われた。そしたら、このくらいばっかりの藁しぼがね、ちらかっとった。そしたら、それを、ちょっと拾うてから、袂の中にお入れになって、祭場に進まれた。私は、秋永先生に小声で言いました。秋永さん、あれだよ、金光様のご信心は、ね。もう、行く手に、例えば、小さなほどしの、例えば、もう正常であらなければならない所にです。藁しべほどのものがあっただけでも、もう金光様は、前にお進みになれないほどしの神経の小ささを持っておられた。素晴らしいですよね。ね。
それでいて、どういう事かと言うと、ね。それこそ、天地の親神様のおかげを、それこそ身一つで受けておられるほどしのおかげを受けておられた。思うことも無くなり、欲しいものも無くなりというほどしに、神様を信じきっておられた。天地の働きを、そのように信じておられる。ね。ですから、大きな信心という事は、大きな事ばかりを言うておるという事ではない。ね。けれども、私が、一番初めに申しましたように、大きな信心とは、ね。天地金乃神様、言うなら、天地がバックだと信じれれる、確信出来れれる信心が、一番大きな信心なんです。私は、そういう信心を頂いておるんだと、いつも心にかけさせて頂けておるほどしの信心。ですから、何時、どんな場合でも、驚くことも無からなければ、騒ぐことも無い。ね。そのためには、日々、私共の信心修行の焦点がです。それこそ、藁しべ一本の上にでも、ね。散らかっておってはならない所に、散らかっておるならば、それを拾うて進むほどしの信心がなされなければならない。綿密な信心がなされなければならない。という事になります。ね。拝む時だけ、頼む時だけてんなんてんち、信心な、こうまか信心という事が分かりますね。まぁ、これは、私の、二十何年間の、私の信心を振り返ってみて、何時、どんな場合であっても、ね。私には、神様が付いてござるといった様なものではなくてね。いつも天地がバックだと。こんな心強い事は無いというのが、私の信心だったと、自分で思います。いつも天地がバックなんだと。
昨日、午後から、北野の堤清さんの、三番目の息子さんが亡くなりまして、昨日がちょうど、一年の発ち日でございました。御用の奉仕をさせていただいとる時に、ここで、四時からでしたから、その事を、ここでお願いさせてもらいよったら、あの、頂きますことがね。「風雨を、やむを得ずして起こる」と頂きました。風雨というのは、風、雨、ね。やむを得ずして起こるのである。朝のお参りを終えられて、帰られただろうか、もう、着かれたという頃、電話が掛かってきた。ちょうど、去年の昨日である。ね。赤ちゃんに、布団を着せすぎてから、もう、窒息しておられて、ね。もう窒息しておる、もう電話掛けた時には、もう、終えておられた。その、私が、朝、あの、ここ、お届けを終わって、下がらせてもらって、私と繁雄さんと、誰だったか、三人か四人かで、お茶を頂いておった。今日はね、私は、とっても気になる事がある。今、昨日までは、赤い花が入っとったのに、お便所に、今、私が、自分の便所にあの、やらせて頂いたら、真っ白い、花だけがさしてある。あら、何の花であったか、私は、覚えませんでしたですけれども、なんと言うておるところに電話が掛かってきた。そして、その事じゃった。だから、私は、まぁだ、お届けに見えた時に、清さんが、裏さん見えましたから、電話でお願いして、直ぐそして、自分で見えられた。それで私は、茶の間でお茶頂きながら、清さん、ちょっと、お茶一服上げたいけど、お茶頂く前に、私の便所に、お手洗いに行ってから、行って見てきてごらんと言った。で、やりました。先生、真っ白い花が、一輪さしてあります。ね。これはね、例えば、その、窒息しておるものでも、はぁ、一遍に、生き返らしてもらって、助けていただきたいと言うのが、こら、親の願いでしょうけれどもね。こりゃぁね、言うならば、もう、なるようにしてなっておるのだと、これは。ね。
教会で、あの、白い花ばっかりの時の花が来たりすると、まぁ、必ずと言うほど、教会の誰かが、不幸な事がありますはね。かと言うて、ほんなら、この頃、大祭のときに、秋永先生の奥さんが、ちょうど今、花を入れよった。あの、からという花、あればっかり、水盤に一杯生けとった。はぁ、こりゃ、精進もののお花器でござるが、白か花ばっかり、私が、そげん言うとるとを、誰かが聞いてから、その、言うとるわけです。それでその、見事なあの、金盞花が沢山、来とったから、金盞花を、どんどん挿しよりなさいますもん、私が行ったら。はぁ、そげな、からの花のそばに、金盞花さしたっちゃ、良かもんか、そりゃ、せんが良かげなちゃ。そりゃ、白ばっかりの花と言うたけんじゃろて言いよったら、その、「はい」ち言うた。あぁ、取りなさい、見苦しか、かえってそげな、わざわざ、そら、神ながらな事だからと言うておりましたら。しばらくしたら、あの、菊の花の、赤い菊の花を沢山、その横に、ちょうど、一対のようにして入れられた。だから、これで、元取った。こうほうじゃから、こら、白だけなら、精進もんじゃろうけれども、赤が付いたから、紅白ならもう、お祝いだ。というた様な事でございましたけれどね。もう、自然というものはもう、どうにも仕方がない。天地の働きというものは。それが、私共の場合はですね。はっきり、自然の働きをです、ね。そういうような自然の働きの中に感じさせてもらうんだ。感じ取らせてもらう。それを、キャッチさせて貰えれる信心を頂いておるという事なんです。それが有難い。だから、清さん、悔やむことじゃないばい、こりゃ、神ながらのお国替えだという訳なんです。ね。
昨日、また頂きましたのも、そう。「風雨、やむを得ずして起こる」である。ね。人間心使うて、ほんなら、赤い花ばっかりなからにゃいかんち言うたら、また、赤々しゅうなってから、またね、可笑しいですから、赤白、色々あって良い。それも、神ながらなもんでなからにゃいけん。神ながらに、自然は、いつも、私にものを言い掛けて下さる。自然は、いつも、私に、囁き掛けて下さる。自然は、いつも私に、それこそ、ね。それこそ、鼓膜が破れる様な大きな声で、呼びかけて下さる。様々である。ね。だから、自然、いわゆる、天地そのものが、いつもバックだと思えれる訳であります。で、昨日、霊祭終わってから、皆さんに聞いて頂いた事でしたけれどもね。こんなふうに言うてから、風雨、やむを得ずして起こるのであるから、ね。もう、一年たった今日、どういう様な親御さん達が、昨日、お里のお婆ちゃんも見えておられました。家内のひでさんのお婆ちゃん。それで、親子、子供、みんな集まっての霊祭でございました。
ですから、信心しよってもね。やはり、雨もありゃ、風もあるという事。そこまでは、ほんなら、信心しよってもしよらんでも同じなんだけれども。信心させて頂いてる者は、それから先が違うんだと。それは、常日頃、信心の稽古をさせて頂くという事はです。いわゆる、道理の上から、色々、分からせていただくと同時にです。どういう様な事が起こっても、驚かんで済む信心を頂いておくという事。信心するものは、これから先、どのような事が起こっても、驚いてはならんぞと仰るような、驚かんで済む信心。ね。いや、むしろ、その事をです、ね。元気な心で、その事を境に信心が飛躍する。その事が有難うなる。ね。そういう、例えば、困ったことが起こってくる、そこまでは、信心があるもんでも、なかもんでも同じ事だと。
昨日一昨日、久富繁雄さん、ここで御用を終わられてから、帰られよった、そこの、斎場の村中まで帰られると、ちょうど、村の曲がり角のところで、向こうから来た単車と、自分の単車が正面衝突。あぁ、自分も、こう、腕が腫れてから、こう、真っ黒になってから、まだ居られます。相手の人も、小指を、何かこう、どうかなさった。そしたところが、あの、ここのマルショウの幹部であります、久保山豊春君です。はぁ、おっちゃま、どうもすみません。いや、どげんかしとらんやったの。まぁ、おかげで、おかげ頂いたと言うて、二人。けども、帰られたけども、ちょっと、相手は、まぁだ、子供上がりの方じゃから、ね。大人の自分が、やはり、というので、また、わざわざ出て見えられてから、それで、お家に、ちょっと、挨拶に行っとかにゃいくまいと言うて、出て見えた。ちょうど、久富先生が奉仕しておられたそうですから、久富先生が、あの、豊春君、さっきから、お礼に出てきてから、あの、どうしたのち言うたら、ころだち。衝突したち言わじゃった。そしたら、おうちにあーた、ころだち言うてあるとに、あーたが、衝突したてんなんてん言うなら、妙なふうじゃけん、もう、そりゃ、行かんほうが良かばいち言うことじゃった。そs個で、繁雄さん、神様に、その事を、お取次ぎいただいて、お願いなさって、昨日です。お初穂を整理させて頂きながら、繁雄さんが、それこそ、感嘆の声を上げてですね、ほんに、合楽に通うてくるという事は、素晴らしいことですよと。まぁだ、子供の、言うなら、マルショウで、ましてその、お参りもしよる、御理解も頂きよるけれども、ほんに子供達が、どげな風に分かって行きよるじゃろかと思うたところが、先生、私は、今日、お初穂を整理させて頂いたら、豊春君のお初穂があった。そらもう、自分が勤めに出よりますから、もう、お初穂なんかでも、ちゃんとして、そしてその、お初穂にね、御礼、御詫びと書いてあった。交通事故に合うちから、言うならば。その事をです、おかげを頂いて助かりましたと言うお礼と同時にです。そうなってきたことのお詫びを申し上げてくださいと、お取次ぎいただかれたに違いはないです。お初穂にも、ちゃんと書いてあった。もう、全然、信心させて頂くようになったらね、ものの見方、考え方が変わってくるの。おっちゃん、あーたが、ここから出てくるきん、私は怪我したばの。そんな事があるもんかい、あんたが、こうして曲がってくるきんくさいと言うて、両方が争わなければならない様なのが、現在の状態ですよね。世の中の状態。そして、怪我しとるなら、しとる方が、薬代でん取らにゃ出来んという様な、薬代でん取らにゃいけんと言うのがそうです。ね。それを、お礼を言うたり、お詫びをし合うたり、神様にも、行き届いた、そうしたお礼が出来、お詫びが出来ておるという事がです、ね。だから、信心ちゃ、これよと言うて、まぁ、今のこの話を、昨日致しました。清さん達、夫婦のところに、子供が亡くなった。しかも、本当に、あん時に、ただ、人間の不注意でと思うとるけれども、決して、不注意じゃ、・・。もう、そうあるべきしてあったのだと。風雨はもう、やむを得ない事だと。と言うて、また、次の例を、私が話しました。
これは、私、昔、聞いた話の中にね。ある人が、そこの子供さんの親に対して、あんた方の子供は、水難が、顔に相が出てるよと、今日は。今日はもう、出しどんしなさんなと、注意を受けててですね。その子供さんを、もう、それこそ、付ききりでね、外に出さなかった。顔に水難の相が出てると言われた。ね。だから、出さんきん、もうあの、大丈夫と思うたところが、お風呂に入ってからね。お風呂の中で、洗面器の中に顔突っ込んで死んどった。だから、もうね、そこに、そういう、降るべきして降る。もう、やむを得ずして起こってくることなんだ。こら、だから、どがしこ用心したっちゃ、そらもう、どうしても起こってくることなんだ。ならばです、ね。神様としても、いわば、やむにやまれんで、そこにそういう働きが起こっているのですからです。その働きを知るという事が、大きな信心なんです。金光様のご信心とは。ね。天地の働きの中には、もう、やむにやまれない事なんだ。罰かぶって、起こるとでもなからなければ、ね。あれが、憎たらしいから起こるとではない。もう、やむにやまれんでの事は、起こるのである。ね。ですから、そこまでは、信心しとっても、しなくっても同じだけれども、その受け方いかんによってです。もう、それこそ、底なしのおかげが受けられるような受け方もありゃ、ね。そこから、いわゆる、信ずる力というか、おかげを頂かせて貰えれる働き。そりゃ、だからもう、受け加減です。ね。痛い思いして、あ痛っと言うとば、先に言うか。すみませんと言うか。有難うございますと言えるような心の状態がです。もう、次の、これだけは、だから、絶対のものなんです。ね。雨が降るとか、風が吹くとかという事は、信心があっても同じ事なんだけれど、ね。まぁ、そのまたこれを、厳密に言うと、実は相じゃないですよね。金光様の信心は、無限の風は時をきらわずと仰るほどしの働きもあるですけれども。今日は、分かりやすく、相申しておりますけれどね。
起きて来る事は、お夢じゃないけれども、その起きて来る事の、受け方次第。その見方、考え方がです。もう、次のおかげになってくるとです。ね。衝突して怪我したけん、あれからいっちょ、薬代いっちょ取らにゃならんと言ったような考え方でなくてです、ね。その事で、本当にお礼を申し上げる、お詫びをさせて頂くと言った様な、そういう事はね。それは、あの、本当な事が分かってくるから、それが出来るのです。ね。その本当な事が分かるという事が、今日、私は、大きな信心と、こう言うております。ね。
不平を言うことや、不足をいう事は要らん。悔やむことは要らん、悲しむことは要らん。人のせいにすることは、なおさら要らん。ね。私は、いつも、天地がバックなんだから、どんな場合であっても、どんな事が起こっても、天地がバックなんだから。もう、こげな心強いことはない。ね。
お商売をさせて頂いても、ね。銀行なら銀行がです。後ろ盾になってくれる、ね。これこれの枠までは、出しますと言う。例えば、証文を取っておくとです、楽です。ね。けども、バックを持たない商売人は、やはり、心細いです。ね。いわゆる、ましてや、天地がバックなんです。言うなら、私共がです、もう本当に、神様に愛されておると信ずる信心です、今は。ね。私は神様に好かれとる。私は神様に愛されておると。ね。思い上がりのようですけれども、私共は、それを信じておる。いよいよになって、いよいよ、ぎりぎりの時には、神様が、絶対、おかげ下さる。こう信じておる。ね。そこでです、ね。私は今日、ずっと申して参りました事は、ね。神様から、そのように信じられておると。自分では、感じるほどしにです。おかげを受ける事のためにね。神様を、いよいよ、信じさせていただく信心修行がなされなければならんという事になります。ね。
神様に信じられる前に、神様を信じて疑わない信心を、先ず、身に着けていかなければならない。そういう、例えば、修行がです、ね。最近言われておる、黙って治めると言った様な生き方、そういう信心修行をさせて頂いておるとです、神様の絶対なものを、いよいよ信ずることが出来るようになる。神様を、いよいよ信ずることが出来るようになると同時にです。神様から、ね。信じられるところの、おかげを受ける事のために、精進させて頂くようになる。ね。それが、本気で改まろう、本気で磨こう、もう、限りなく美しゅうなろうと言う生き方。神様に認められる、神様に信じられる。それを、自分の心に感じる。そこに、初めて、天地がバックだから。何時どんな場合であっても驚かんで済む、慌てんで済む。どのような事であってもです。それを、神意として受ける、神愛として受けることが出来る。そういう、それを受けれれる信心。そういう信心を、今日は、大きな信心だと聞いて頂きましたですね。
金光様の信心しよるから、大きいという事じゃ、決してないです。金光様の信心させて頂きよってもです、ね。小さい事が、ね。それこそ、重箱の隅を指でせせるような、ね。そういう信心では、やはり、おかげも小さい。それでは、いつまでたっても、神様に信じられるといった様な事はおぼつかない。
そこで、例えば、今日のような御理解を頂いたらです、ね。本当に、天地がバックだと信じれれる、確信が持てれる所まで、信心を、一つ、させていただこうと言うところにです。なるほど、迷い信心ではいけない事が分かります。なるほど、一心と定めいと仰るが、そこ一心に焦点を置いてです。それは、倒れ転びもありましょう。ね。これほど神様を信じておるのに、ね。反対に、神様は裏切りなさったと言う事もあるかも知れません。けれども、そこんところをです。これはまぁだ、私の信心が足りんのだ。私の真が、まぁだ、欠けておったんだと言い。その一途にです、いわゆる、一心と定めいという事は、そんなことだと思う。神様も、いい加減なものじゃと言うのじゃなくてです。どこまでも、神様は、絶対なものとして、それに向かって進んでいくと言う信心。そういう信心が、一心と定めさせて頂かなければ出来ないと思うですね。
大きな信心とは、ね。天地がバックだと、ね。天地の親神様が、よく言いますよね、天地の親神様のお懐の中にあるとか何とか言うたっちゃ、もう、小さなこつばかり言うたり、苦になったり、心配したりしよるなら、そらもう、言うだけです。ね。本当にです、なるほど、神様の懐の中ですけれども、それを信じ切らなかったらつまらん。どんな場合であっても、天地がバックだと。ね。ですから、天地の働きと、私共との、係わり合いというものが、密接になってきてです。なるほど、神様が守っておってくださる証拠、天地がバックである証拠と。
例えて言うとです、ね。昨日、正義先生がお届けしとりましたが、まぁここで、色々交流させて頂いて、お願いさせて頂くと、本当に、あのなんか、昨日、杭をもし、前の日に打っておらなかったら、今度の雨で崩れてしまうところでした。けれども、先に打たせて頂いておったから、おかげで平気で通らせて頂いたと言うように、もう、あぁいう土木関係の仕事をしておりますから、天地と、えらい密接な関係があるわけです。ですから、もうその、天地が、それこそ、久富建設のために働いておられるかと思われるように、おかげを頂く時が、段々、はっきりしてきた。そら、たまには、反対の事もあるけれども、これはまぁだ、私の信心が足りんからだと言う、一途で進んでいく以外ない訳なんです。ね。
合楽の何十年間の御大祭に、雨が降った事がない、ね。という様な事実から言うてもですたい。ね。例えば、降っても、例えばほんなら、そう言う様に、それこそその、御大祭の時間を抜いたようにして、降ったり吹いたりしておるという様な所から、押して考えてもです。ね。だから、私共の信心も、そこのところまで、こう進めていく所のおかげ、ね。なるほど、天地がバックだなぁと分かったらです。他の全ての事がですね。楽になるです。ね。天地の親神様に、金光大神のお取次ぎを頂いて、お願いをしておることであるから、ね。右地に出ろうが、左に出ろうがです。それを、おかげだと、確信して受けることが出来る。そういう信心が、大きな信心だと思おうですね。どうぞ。